蕎麦喰地蔵

蕎麦喰地蔵

【蕎麦喰地蔵とは?】


昔から願をかける時、または願が成就した時には、御礼として蕎麦を供養するという習わしがありました。
この習わしが始まりが、この蕎麦喰い地蔵です。
蕎麦屋・尾張屋の主人が西慶院のお地蔵様へ蕎麦を供え、祈願することを怠らなかったそうです。するとある年、江戸に悪疫が流行し、多くの人へ被害が出たのですが、尾張屋一家はみな無事息災だったそうです。
ここから「延命蕎麦喰い地蔵尊」と名付けられ、現在に至ります。
色鮮やかな朱色の暖簾の奥にはやさしいお顔の蕎麦喰い地蔵が奉納されており、なんとも和やかな気持ちになります。

蕎麦喰い地蔵のおはなし(クリックして下さい)

「ああ、美味しかった。ご馳走様。」
お坊さんは何度も丁寧に礼を言うと、暖簾をくぐって出て行った。
いやいや・・・、こんなに夜遅くお忍びでお出でなさるとは、よほど蕎麦のお好きなお方と見えるわい。
もともと信心深い尾張屋の主人のことゆえ、お坊さんの所望に毎夜よくもてなしていた。
だが待てよ...、闇の中に去っていくその後姿を見送りながら、主人は不図こんなことを考えていた。
もう1月にもなるかな、毎晩決まって四つの鐘が鳴ると、間もなくお見えになるような気がする。それにしてもあの奥ゆかしい容貌と言い、穏やかな物腰と言い、唯の方ではあるまい。一体どこの方であろうか。ひとつ明日聞いてみよう。

翌日、主人はお坊さんにおずおずと尋ねてみた。
「不躾ながら、あなた様はどこのお寺でいらっしゃいますか。」お坊さんはその問いを聞くと、はたと困ったような表情を浮かべ、只恥ずかし そうに顔を紅らめ、答えようとしない。主人の重ねての質問にやっと「田島町 の寺・・・..」と小声で言うと、あとそれ以上は聞いて呉れるな、と云うような眼 差しを残して逃げるように立ち去った。
どうも腑に落ちない。さては蕎麦好きの 狐か狸に化けているのではないだろうか。よーし、今度来たら正体をつきつめ てやろうと店の者がいきまくのを主人は押えておいた。

明くる日またお坊さんは、何事も無かったように蕎麦を食べ終えると、礼を述 べて帰った。覚悟を決めた主人は、こっそりその跡をつけて行く。知ってか知らずかお坊さんは深閑と諭まり返った夜道をゆっくり、ゆっくり歩いて行った。 袈裟衣の黒い影は、誓願寺の山門をくぐり、西慶院の境内に入っていく。ああ、 申し訳ない、矢張り本当のお坊さんだったのだ。何という申し訳ない事を、と山 門の陰で両手を合わせてお坊さんの後姿を拝んでいた主人は、その時ハツと 息をのんだ。お坊さんの姿が、地蔵堂の中にすう一つと消えてしまったのだ。 そして、御像にほのかな後光が射しているかに見えた。主人はへたへたとそ の場に座込み、しばらくは茫然と御堂をみつめた俵であった。何処をどう走っ たかもわからない。やっと家に辿りついた主人は、店の者がうるさく聞く声にも 耳を貸さず、申し訳ない、勿体ない、お許しください。」と繰り返すのみ。
その夜、まだ興奮もさめぬままにうとうととまどろんでいると、枕元に厳かなお告げ が聞えた。
「我は酉産院地蔵である。日頃、汝から蕎麦の供養を受けまことに 番い。その報いには、一家の諸難を退散し、特に悪疫から守って遣わそう。」
それ以来、主人は毎日、酉慶院の地裁さまに蕎麦を供え、祈願するのを怠ら なかった。ある年、江戸に悪疫が流行して、死人が続出し野辺送りの列が絶 えなかった。人々の悲しみをよそに尾張産一族はみな無病息災であった。
                                   南無蕎麦喰地蔵尊 合掌


【延命のお地蔵様とは違う顔も】
やさしいお顔をされた蕎麦喰い地蔵ですが、実はもう一つ別の顔も存在します。
慶長元年(1596年)関ヶ原の合戦の4年程前、蕎麦喰い地蔵が現在の須田町あたりに奉納され、地蔵尊の別当が塔中西慶院開基善誉俊也和尚になりました。
それ以来帰依する者が増え、武家の信仰が深くなりました。武士たちはみな、勝ち戦の祈願をしてから戦場へ行くようになり、「将軍地蔵」とも呼ばれるようになったそうです。


【蕎麦喰い地蔵のイベントを開催!】

ソバリエの皆様が中心となって開催しております。

参加者全員お参りをします

本堂で住職の法話です

本堂でコンサートなども行います

三遊亭圓窓師匠による落語です

皆さんで食事をいただきます

全品手作りです!