当山住職

法話

『因縁果』 ~ご縁の受け止め方~

 と言うと何か特別な修業でもするのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
 我々は毎日様々な出来事、出会いのなかで生活しています。それを仏教では「縁」といいます。
 この縁を説明する、因・縁・果という教えがあります。
 兄弟・姉妹は子供のころ、両親から同じように可愛がられ、同じ食事をして、枕を並べて寝て、同じ学校に通い、全て同じように育ってきたはずです。では、いまも同じ人生を送っているかというと、それぞれ異なった人生を歩んでいます。なぜならば、それぞれの出会う縁が異なるからです。
 つまり、因・縁・果とは、同じ可能性を持った人や事柄(因)も、その後の外的条件(縁)によって、全く異なった結果(果)を生む、ということです。
 また、我々の人生のなかで出会う縁には自分にとって「好ましい縁」もあれば「好ましくない縁」もあります。できるだけよい縁を望むのが我々です。
 しかし、食べ物でも、好きな物ばかり食べていると偏食で健康を害すように、また人材登用でも好き嫌いをしていると、会社の経営ができないように、やってくる縁を避けてはいけないのです。
 松下幸之助さんは晩年「一代で世界企業にした成功の秘訣は」、との質問に対し、「秘訣は3つある」とし、
1、 自分は貧乏であったこと。
2、 自分は病弱であったこと。
3、 自分は学歴がなかったこと。
の3点を挙げています。
 我々は、これらを成功の秘訣ではなく、成功できなかった理由として挙げたくなりますが、氏は「貧乏」であったから一所懸命に働き、「病弱」であったから摂生に努め、「無学歴」であったから勉学に励んだというのです。
 つまり、縁そのものの善し悪しより縁の受け止め方が大事なのです。「善い縁」は独り占めせず他に広げ、「好ましくない縁」は改良して新しい可能性を引き出すきっかけとする。
 「自業自得」の「自業」とは、毎日の出来事・出会いといった「縁」をどう受け止めるかということ、「自得」とは、その受け止め方によって結果という未来が全く異なってくるということです。

合掌

過去の法話をご覧になる場合は下記をクリックしてください

『感応道交』

 この語は「かんのうどうこう」と読み、意味は「仏のこころと、我々のこころとがお互いに相通い合う」ということです。
 昔、ナポレオンは「我が辞書に不可能という文字は無い」と言ったそうですが、仏教の辞書に「偶然」という文字はありません。一見偶然に見える事柄も、そこには必然を含んでいるとみます。その必然を仏教では「縁」といいます。
 きわめて個人的な問題である就職や友人や結婚など、全て自分で考え自分で決定したと思われるこれらの事柄も、もしあの時、あの人に会っていなければ、あるいは、もしあの時あそこに行っていなければ、と考えると、自分で決めたというよりは決めさせられたという必然を感じます。つまり目に見えない縁と言う大きな力によって我々は日々生かされていることに気づくのです。
 お釈迦様は「縁を見るものは法を見、法を見る者は縁を見る」と説いておられます。法とは「教典」であり「この世の真理」であり「仏様」です。お釈迦様は、「縁」に気づくというのは「仏」に気づくことだと説いているのです。もし現在、自分にとって不都合な縁があるとすれば、この縁は私の新しい可能性を引き出さそうとする仏の働きであるであると理解することです。それは後に確信となります。
 このように、縁という仏の意志を常に感じながら生活をすることを「感応道交」と言います。だから日々お陰様なのです。
 
このホームページをご覧いただいたことも「縁」だと確信しております。
                                             合掌